凡人

ただの人です。

普通の話

僕の母親の口癖、「普通さぁ」と「当たり前でしょ」と「そんなことも知らないの?」で、会話すると一回は発すると言っても過言ではないし、それくらい僕は"普通"を求められてきたんですよね

というのも、兄が多少の障害を持ってるとかどうとかって話らしく、普通じゃない兄の弟である僕も普通じゃない…とか。くっだらない話をマジ顔でされまして。はっきり言ってこれ親として最も言ってはいけないことの一つなので、気をつけてね。

 

そんな訳で再三"普通"を連呼されて育てられた僕ですが、結果どうなったかっつうと、まぁ普通じゃない母親に育てられたガキが普通に育つ訳もなく。それでも色々考えて研究して試行錯誤して、なんとか「普通っぽい」人間であることはできるようになったのかな?頭悪すぎてよく死にたくなるけどね

けどまぁ、母親を反面教師としてからは多少マシな人間になりつつある自負があるんだけど

 

それはともあれ。では母親が連呼してた"普通"とか"当たり前"っつうのは、何を基準に話してたんでしょうか?

答えは簡単。「自分にとって"普通"や"当たり前"であるかどうか」。つまり、母親は自分の物差しを僕に当てて、正しいとか間違ってるとかって話をしてた訳だ

まぁ別にこれが100%ダメだったとは言わない。おかげで普通や当たり前について考える機会もあったし、そんな僕を評価してくれる方もたくさんできたし。致命的な部分は他にあるけど

 

問題は、無関係な他人にも同じように自分の物差しを当て始めるところにある。しかも、自分に見えてる部分だけを見て、である。これはよくない。

今立ってる場所からどう見ても四角形だったとしても、実は他の角度から見たら三角形にも見えることもある。なんなら直線だけで構成されてるとは限らないので、横から見たらグニャングニャンかもしれない

自分からは見えない面ってのはどんな人にも絶対に存在するし、その形は他人が四角形だと思ってても実は台形である可能性もある。

 

なんの話してんのかよく分かんなくなってきたけど書き直すのだりぃので、無理矢理まとめます

○ "普通"や"当たり前"は自分の物差しでしか計れないので、安易に他人に押し付けたり他人の物差しを否定したりするべきではない。やるなら相応の責任があることを自覚しな。

○ 自分に見えてる姿がその人の全てじゃない。確かに評価は見えてる部分でしかしようがないが、「見えてない部分があるかもしれない」ということは常に念頭におき、簡単に礼節に欠けるような事をいうべきではない。

 

以上です。